安保法制への批判の一環として、
「徴兵制復活」の可能性を訴える議論がある。
これに対し、安倍首相は
「徴兵制は憲法が禁じる苦役だから、あり得ない」と反論する。
どっちも可笑しくないか。
まず、安倍首相側の反論。
これは、従来の政府見解の踏襲だ。
憲法第18条
「何人も、いかなる奴隷的拘束も受けない。
又、犯罪に因る処罰の場合を除いては、
その意に反する苦役に服させられない」
徴兵制は同条に反するーというのが、政府の立場。
それは憲法学界の通説でもある。
だが、明らかに異常ではないか。
国防という、国家にとって最も重要かつ神聖な義務に従う兵役を、
懲役などと等し並みに扱うべき「苦役」とは!
ならば靖国神社の多くの英霊は、そうした“苦役”を
無理やり課せられて、無惨に殺されたのか。
殆ど正気とも思えない。
例えば、1948年制定のイタリア共和国憲法第52条第1項には
「祖国の防衛は市民の神聖な義務である」と明記する。
兵役は国民の自律的な義務であって、
忌むべき「苦役」や「奴隷的拘束」などとは、明白に異なる。
国防義務を苦役視するような政府には、
集団的自衛権に踏み込む安保法制を進める資格などあるまい。
徴兵制を憲法第18条違反と見る、
これまでの“病的な”公権解釈は速やかに破棄されねばならない。
次に、徴兵制復活に繋がるから安保法制反対との論調。
これについては、リベラル系の論者から“戦争回避のための
”徴兵制容認論、又は推進論が出されている。
例えば、法哲学者の井上達夫氏の議論。
「ベトナム戦争の初期においては、
反戦運動なんてほんのひと握りでした。
それは、初期は志願制で、主としてアフリカ系アメリカ人と
貧困白人層が戦場に行っていたからです。
しかし、戦争の激化とともに、徴兵制が採択され、
マジョリティである白人中間層の子供まで戦場に行くようになると…
初めて大規模な反戦運動が起こるんですね。
…『9・11』の後のアフガニスタン侵攻や2003年の
イラク侵攻はまた志願制で、元の木阿弥になった」
「民主主義といっても、遠い他国に志願兵が送られて戦闘している
自国を、遠く眺めている限りでは、人々はなかなか真剣には考えない。
やはり、下手な戦争をすると、自分や、自分の子供たちが
本当に命を落とす、あるいは人を殺さなければならない立場になる、
ということが切実に感じられて、初めてその戦争はやるに値するのか、
真剣に考えるようになる。
だから、徴兵制の採用は、軍事力をもつことを選択した
民主国家の国民の責任である、と。
自分たちが軍事力を無責任に濫用しないために、
自分たちに課すシバリだ」
あるいは軍事アナリストの小川和久氏も、こんな意見。
「国民皆兵によって軍隊の内側から国民のチェックを四六時中、
働かせるようにしておけば、
一部の勢力が妙な謀議をこらすこともできにくくなり、
軍隊が暴走や独走をする危険性への大きな歯止めになる…。
普通の市民が、国家や社会の危機管理というテーマを
身近に考える機会になるし
…軍事組織の中で一定の期間を過ごし、
戦争や平和や人間の生死について考え、
悩んだ若者たちが一般社会に戻り、市民社会を形成するようになれば、
その社会はより強固で安定したものになる」
「国民皆兵であれば、仮にどこかの国が日本を侵略しようとした
としても、国民全体で立ち上がった巨大に日本の軍事力に
直面することに…これだけでも、
侵略に対する国民的抵抗の意思表示になり、
侵略をためらわせる大きな抑止力になる」と。
徴兵制に思考停止を続け、脊髄反射的な対応に終始するだけでは、
説得力のある論理は生み出せない。
保守もリベラルも、徴兵制というテーマから逃げてはならない。